奇的―ボヤージュ
前作『奇的』は作者が東京芸大先端表現芸術科在学中に製作した作品で、同大初のマンガ買上げ作品になった。で、本作は、修士課程に進んだ作者がさらに描き継いだ『奇的』をまとめたもの。
「ウラキテキ」と題した後書きで、作者は今回の作品について「詩的な展開と隠喩の記号化を模索した」と記している。ナルホド…前作ではまだかろうじて出来事の連鎖を追うことができたが、おそらく作者は今回、ほとんど夢の文法で語っている。深刻な病を得たらしい著者にとって、こうした表現が切実なものであることは理解できるような気がする。
しかし、この作品から伝わってくる切実さには、どこか痛々しいものがあって、それは表現としての未熟さを示すものではないかと思う。
残酷な言い方かもしれないが、死への対峙が私の固有性を形成する一方、死は誰にも平等に訪れ、私だけの特権的な主題ではあり得ない。死への畏れは「人間」的なものだが、「生命」の必然でもある。死の隠喩とは死への畏れの隠喩に他ならない。このことに無自覚なとき、隠喩は表現ではなく畏れの徴候となる。この分かちがたい両者を分かつのは知性だと、私は思う。
後書きには「その昔、ジャーナリストやカメラマンに代わって現場へと漫画家が飛び、ちくいち現場の状況を漫画に仕上げて即座に新聞社に電信し、報道を行っていたという時代もあったそうだ」という一節があり、作者はそのことに勇気づけられている。しかし、漫画を即座に電信して報道した時代とは一体いつの話なのか。
私には本作が、前作より後退しているように感じられる。
奇的
本作は作者の大学生活を描いたもので、心理描写が随所に溢れている。
例えば対象の動きが夢は幻覚のように描写されていたり、
カメラワークから映像的な感覚を覚えるが、そのカメラの焦点がズレているなど。
ストーリー性・テーマ性はあっても極めて個人的・内面的なので、
読者へのエンタメ性は端から意識していないように思う。
やはりどちらかと言えばアートであり、パフォーマンスに近い感じ。
絵については一見誰でも描けそうなだけど、極めて少ない特有の線で的確に描写され、
独特のキャラクター造形や黒ベタの表現から上手い人だとわかる。
実験的な遊びが多く見られるけど、これは表現したいイメージを描くために
マンガ的な表現を用いただけな気がする。特に最初の頃は描き慣れていないようで
コマの大きさ・構成が単調で画面も退屈だが、後半は視点の流れもスムーズになっていく。