e文庫 『ABDUCTION-拉致-』 平井和正
長い。
のは、特に問題ではないわけなのだ、実に。全20巻なら、平井和正の長編としては手頃なくらいではないか、という意識もある。
にも関わらず、こと「アブダクション」シリーズについては、これが各編1冊に収められていたら、もっと人口に膾炙できたのではないかという憾みもないではない。設定としてはかなり面白い気がする。未読だが、側聞による「ひぐらしの鳴く頃に」に先行しているわけだ。(違うかも)
「ひぐらしの鳴く頃に」が仮に想像したようなプロットだとして、異なるのはやはり「上書き」、そして謂わば輪廻転生の螺旋構造を同じ宇宙の回転で培っていく呪術師集団という図だろう。主人公・直哉の恋の数が全て女呪術師集団の結成のためにあり、そして直哉自身は小さな、そして大事な、ラムダのための行動に全てを集結させる。これが平井和正の独特さだろう。
キャラクターたちの面白さは変わるところはない。が、他の作品群と比べてベクトル感覚が欠如しているのは、視点が基本的に直哉ひとりであるのに主格が「少年は」と語られているところが大きいような気がする。同じように「少年は」が多用される「狼の紋章」では、青鹿晶子の視点が中心で、これに少年犬神明をハードボイルド的に外面から描く形で「少年は」と語られていた。そしてこれが同時に、突如として犬神明の懊悩する内面を描写する際のインパクトを産んでいたのだ。
もし「アブダクション」が、「直哉は」或いは「おれは」という通常の三人称もしくは一人称であれば、全く異なった印象の作品だったのではないだろうか。
「直哉は」と語れないのは、直哉が元猫ならぬ元武志だからだが、「少年は」とハードボイルドにどこか一枚別視点を通しての主格が殆どを占める全20巻は、平井和正の抜群のはずの感情移入の魔法を煙らせてしまったような観がある。フィルター越しになっているのだ。いつもの、主人公と思わず同化していくドライブが掛かっていかないもどかしさがある。
一人称「おれ」で語られていたなら、果たして「アブダクション」がどうなっていたか、興味がある。しかし、ここにはフィルター越しで感情移入を阻害せざるを得ない意味もあったのかもしれない。
トルテック呪術の特質は、「非情」――少年犬神明が希求して得られず、ゾンビー・ハンター田村俊夫が疑似体験して脱出した冷徹さが呪術師に不可欠な物であるなら、それは平井和正最大の武器を封印した作品のようになるのが当然だったのだ。
結果、アンリ・ベルトランとの対決は高揚する死闘になることもなく、そればかりか、せっかく生成した女呪術集団と青い宇宙の侵攻者との攻防もエンタテイメントであればそこにこそ筆を費やされるところが看過されている。これはこれで実に平井和正らしいところではあるだろう。
続く「その日の午後、砲台山で」の中で、一人称「おれ」として四騎忍が塚原組のヤクザ矢頭を叩き伏せるシーンなど、ウルフガイや幻魔大戦往時と変わらぬベクトルが走っている。だから、平井和正がベクトル疾走を喪失したわけではない。「アブダクション」では「非情」が描かれなければならなかったのだ。
そして、しかし、それは文字通りの情愛の喪失を尊ぶ物ではない。
だから、ラムダは無事に探し出されていたのだから。
e文庫 『幻魔大戦deep』 平井和正
この「deep」は即ち「深・幻魔大戦」ということだろうが、再読を始めてみると、初めて読んだときほど東丈の描写やそもそもの文体に違和感がないのに気づいた。もっと「アブダクション」のような(つまりは「地球樹の女神」以降のか?)平井和正の「軽み」の部分が前面に出て、重みの部分は見えづらい、あっても続かない、文体になっており、東丈のキャラクターが直哉もどきになっている記憶があったのだ。
だが、ちょうど同時並行して「真幻魔大戦」を再読していたのだが、さほどの相違は感じられない読み始めだったのだ。
それが、一気に「アブダクション」度を加速したのは、“すてきなお母さん”雛崎みゆきが登場してからになる。彼女の登場以降、丈のキャラクターも世界の描写も「アブダクション」に“憑依”されていく。
が、にも関わらず、では雛崎みゆきというキャラクターがそれほどの圧倒的な存在感を持っていたかといえば……これは決してそうではないのだ。登場当初はそれなりの平井和正の女性キャラクターとしての魅力を備えているかに見える……が、振り子を丈に伝授することのみが役目であり、それが終わればもはや使命を果たしたかのごとく、急速に存在感を喪失していく。いてもいなくてもいい存在としか思われないのだ。(その証拠のように、続く「幻魔大戦deepトルテック」では消失している!)
この「deep」において、新しく登場した重要な女性キャラクターの中でも、雛崎みゆきほど重要であり、そして同時に存在意義のなかったキャラクターはほかにはいない。丈にとってすらも、最速で美叡(&美恵)や雛崎みちるに比べて、みゆきが占める割合はみるみるうちに失われていったのではなかったか。
平井和正作品の魅力のひとつには、確かに女性キャラクターの備える“女神性”があったはずだ。ところが、この「deep」で登場した女性キャラクターたちはいずれもかつての魅力に欠けている。東美恵たちなど、「真幻魔大戦」時の養女時代の愛らしさはどこへやら、といって虎4や杉村優里のようなパワフルな魅力を備えているわけでもなくという、どうにも感情移入する魅力の乏しい女性陣だったのだ。
「真幻魔大戦」登場時の美恵は、「東美恵子」だったはずで、それが“夢魔の寝室”編あたりから「美恵」になっているので、その辺ですでに世界が変わっていたのかも? 「美恵子」のままだったら、また違ったのかな? ……この辺は余談中の余談である。
丈のくだけた口調は、べらんめえ部分はともかく、GENKEN主催になる前の少年の丈にはちゃんと存在していたものなので、それほど違和感はない。それよりも、フロイのような“宇宙意識”とインフィニティたる“宇宙意志”はどう違うのか、振り子はコックリさんとは違うのか、そんな細かいあたりが気になってしまうところはある。
GENKEN時代の丈の失踪が、ついに逃避だったと断定されてしまったが、これはつらいところではあるかもしれない。
けれど、GENKENを作らないでいた丈のまわりにやはり久保陽子や平山圭子もいたようだ。彼女たちと一緒に、“非・GENKEN”の丈はいったいどう活動しようとしていたのか。その物語も興味が湧いてしまう。オヤブンでもなく、東丈先生でもない丈は、はたしてどう幻魔大戦に関わっていったのか。
そして……GENKEN世界の延長でありながら、ハルマゲドンの少女にはつながらなかったらしい世界の木村市枝は、「砲台山」の時同様、やはりあくまで木村市枝だった。それがやはり、純粋に嬉しいのが、どの読者にも共通のことではないだろうか。
「その日の午後、砲台山で」には驚いてしまった。
初読ではない。再読だ。初読の時には、いったいどうして特段の感銘も高揚も感じたおぼえがなかったのだろう。
「女神変生」のように、「ウルフランド」系列なまま終始したように思い込んでいた。タイトルの印象のせいもあるかもしれない。PC上でのみ、読みづらさのために斜め読みっぽく読んでしまっていたのかもしれない。
今回はモバイルで、スマートフォンを活用して読んでいた。仕様なのか、そのつもりもないのに段組になっていたのだが、それももしかしたら奏効していたのかもしれない。活字がぎっしり詰まっている方が、平井和正の小説を読んでいる気にさせてくれる。
最初のうちは、記憶のイメージ通りだった。作家・平井和正のモノローグとして始まり、「幻魔大戦」のキャラクター、「地球樹の女神」のキャラクターと遭遇する。この辺りは、「あとがき小説 ビューティフル・ドリーマー」で通過済みだ。
波紋疾走感覚が走り出したのは、スーパー化して、四騎忍として一人称「おれ」で動き始めてからだ。
もちろん、あの少女、木村市枝の威力もあったかもしれない。市枝はいつも不動の存在だ。「幻魔大戦deep」においてもそうだった。市枝がそうであり続けてくれることは希望や安心を与えてくれる。
「ボヘミアンガラス・ストリート」は一人称「僕」が相応しかった。「アブダクション」の三人称「少年」は疾走感覚に没入することを妨げていた気がした。今回、スーパー平井和正の四騎忍が初めて一人称「おれ」で登場した――この「四騎忍の冒険」を読んで、ああ、なんだ、ちゃんと走れる……と感じた。平井和正には本当に「おれ」小説がよく似合う……
これなら、つい数週間ばかり前、たぶんもうアダルト・ウルフガイが再起動しても、それはやはりちがうものだろう……と悲観していたのだが、そうと決めつけるわけにもいかないのかもしれない。
そう、読み終わるのが凄く勿体なくて仕方がなかったのだ。久しぶりだ。再読した「ボヘミアンガラス・ストリート」でも「アブダクション」でも、ついにそれを感じることがなかった。「地球樹の女神」だけは少し異なっていたが、それは単に後藤由紀子にまだまだ未練があったからだろう。
読み終わるのが惜しくて仕方がない……こんな面白い小説を、と、まさかこの「その日の午後、砲台山で」の再読で感じることになるとは、思いもしなかった。
やっぱり、平井和正は端倪すべからざる、なんだよ、と思った。まだまだ、きっと。
この「deep」は即ち「深・幻魔大戦」ということだろうが、再読を始めてみると、初めて読んだときほど東丈の描写やそもそもの文体に違和感がないのに気づいた。もっと「アブダクション」のような(つまりは「地球樹の女神」以降のか?)平井和正の「軽み」の部分が前面に出て、重みの部分は見えづらい、あっても続かない、文体になっており、東丈のキャラクターが直哉もどきになっている記憶があったのだ。
だが、ちょうど同時並行して「真幻魔大戦」を再読していたのだが、さほどの相違は感じられない読み始めだったのだ。
それが、一気に「アブダクション」度を加速したのは、“すてきなお母さん”雛崎みゆきが登場してからになる。彼女の登場以降、丈のキャラクターも世界の描写も「アブダクション」に“憑依”されていく。
が、にも関わらず、では雛崎みゆきというキャラクターがそれほどの圧倒的な存在感を持っていたかといえば……これは決してそうではないのだ。登場当初はそれなりの平井和正の女性キャラクターとしての魅力を備えているかに見える……が、振り子を丈に伝授することのみが役目であり、それが終わればもはや使命を果たしたかのごとく、急速に存在感を喪失していく。いてもいなくてもいい存在としか思われないのだ。(その証拠のように、続く「幻魔大戦deepトルテック」では消失している!)
この「deep」において、新しく登場した重要な女性キャラクターの中でも、雛崎みゆきほど重要であり、そして同時に存在意義のなかったキャラクターはほかにはいない。丈にとってすらも、最速で美叡(&美恵)や雛崎みちるに比べて、みゆきが占める割合はみるみるうちに失われていったのではなかったか。
平井和正作品の魅力のひとつには、確かに女性キャラクターの備える“女神性”があったはずだ。ところが、この「deep」で登場した女性キャラクターたちはいずれもかつての魅力に欠けている。東美恵たちなど、「真幻魔大戦」時の養女時代の愛らしさはどこへやら、といって虎4や杉村優里のようなパワフルな魅力を備えているわけでもなくという、どうにも感情移入する魅力の乏しい女性陣だったのだ。
「真幻魔大戦」登場時の美恵は、「東美恵子」だったはずで、それが“夢魔の寝室”編あたりから「美恵」になっているので、その辺ですでに世界が変わっていたのかも? 「美恵子」のままだったら、また違ったのかな? ……この辺は余談中の余談である。
丈のくだけた口調は、べらんめえ部分はともかく、GENKEN主催になる前の少年の丈にはちゃんと存在していたものなので、それほど違和感はない。それよりも、フロイのような“宇宙意識”とインフィニティたる“宇宙意志”はどう違うのか、振り子はコックリさんとは違うのか、そんな細かいあたりが気になってしまうところはある。
GENKEN時代の丈の失踪が、ついに逃避だったと断定されてしまったが、これはつらいところではあるかもしれない。
けれど、GENKENを作らないでいた丈のまわりにやはり久保陽子や平山圭子もいたようだ。彼女たちと一緒に、“非・GENKEN”の丈はいったいどう活動しようとしていたのか。その物語も興味が湧いてしまう。オヤブンでもなく、東丈先生でもない丈は、はたしてどう幻魔大戦に関わっていったのか。
そして……GENKEN世界の延長でありながら、ハルマゲドンの少女にはつながらなかったらしい世界の木村市枝は、「砲台山」の時同様、やはりあくまで木村市枝だった。それがやはり、純粋に嬉しいのが、どの読者にも共通のことではないだろうか。
幻魔大戦deep トルテック
ちょっと反則かも知れませんが、まだ途中までしか読んでいない段階で、レビューします。1970年代くらいから始まったシリーズですが、その後、約40年に渡って、さまざまな形に発展していたらしいです。実は、私も、途中で挫折した読者であり、最初期の頃しか知りません。でも、あの《幻魔大戦》シリーズの完結編(?)と思われる作品が出版ということで、思わず購入してしまいました。内容的には、一巻目の段階では、抜群に面白いです。二巻目以降の展開が、非常に楽しみです。全巻、読了後の感想は、また改めて追記したいと思います。
(追記:ただ今、第2巻、読了しました。非常に面白いです。まず、主人公が《東丈》ではなく、東丈の義理の娘《雛崎みちる》に変わっている所が、面白いです。もちろん、東丈も登場しますが、あくまで《脇役》です。それと、このシリーズはもともと、《キリスト教的世界観》に基づく作品だったはずなのに、今では、《カルロス・カスタネダ的世界観》に基づく作品に、シフト・チェンジしています。この辺りも面白いです。次の第3巻で、どう物語をまとめるのか?非常に、楽しみです。)
(追々記:全3巻、本日、読了しました。これは、超・面白い《傑作》です。初期『幻魔大戦』からは想像もつかない、《トルテック》的宇宙観が、非常に興味深いです。あと、初期作品によく見られたグロテスクな描写もほとんどなく、素直に楽しめました。それに、さすが《元祖・言霊使い》だけあって、読者を物語に引き込む《筆力》は、圧倒的です。この《トルテック》的宇宙観に関しては、個人的には、もう少し深く学んでみたいと思いました。傑作です。)