母の歌~日本歌曲集
「無名時代(笑)」と彼が呼ぶこの時代の歌唱は大変貴重です。
宮崎駿監督「もののけ姫」という大変なビッグネームな監督の映画主題歌を歌ったことで、スポットライトを浴びて羨望や期待またカウンターテノールという特異な存在に対する『興味本位の見られ方』が彼の音楽人生を一時は狂わせもしました。
今の彼には迷いは見られませんが、宗教曲・日本歌曲のスペシャリストである彼の原点を、多くの方々に知っていただきたいです。海外での研鑚・リサイタルやオペラへの出演など今後ますますの活躍を期待できる、大変優秀な歌手のひとりです。
日本の心を歌う
日本人離れした声です。
心の奥にまで届く、響きのある歌声に感動しました。
このような深みのある声で歌われた日本の歌は
今まで聞いたものとは別の曲のように聞こえます。
こんなにいい曲があったのかと、あらためて日本の歌の良さ
日本語の良さを感じました。
今の子供たちにも是非、このような本物の歌を聞かせたいと思います。
おすすめです。
NHKにほんごであそぼCD「百」~たっぷりうたづくし~
特に好きな「いちより小さい数」が嬉しいですね。数字がただ数字ではないなんと日本語の美しいことか。
そして、うなりやべべんの歌!歌詞の魅力を存分に引き出してとうとうと歌い上げるのには感服です。
夜明け前 第1部(上) (岩波文庫)
第一部、第二部、それぞれ上下巻からなり、「木曾路はすべて山の中である。」という、あの有名な出だしで始まる長編歴史小説である。最後まで読み進むと この出だしの部分は、決して風光明媚なあるいは、のどかな山間の風景を描写したものではないことがわかる。木曾の人々の生活は山がないと成り立たない という厳しい当時の現実を訴えた文章である。
主人公は、馬籠の駅長として木曾を通る参勤交代の諸大名、水戸の御茶壺、公儀の御鷹方、日光への例幣使、大坂の奉行などの通行、休憩宿泊に心を配り、助郷の手配に追われる。幕末に黒船が来て諸大名が国防に駆り出され、長州征伐、朝廷の意向による攘夷など武家が慌ただしく木曾路を移動するたびに、助郷制度により人足が駆り出され、村が疲弊していくのを何とか食い止めようとする。そのような中で、主人公は既に幕藩体制が時代にそぐわなくなってきていることを実感する。
第一部の下巻からは、幕末、明治維新にかけての慌ただしい動きの背景が丁寧に描かれていて、歴史の教科書では分からない裏の動きがよく分かる。
公武合体から尊皇攘夷の流れが、なぜ「攘夷」は消えて、尊皇倒幕になっていくのか、その動きの中で、蛤御門の変では御所を守った「最も尊皇の志が厚かった」会津藩が何故一転して朝敵の汚名を着せられたのか。
また、なぜ明治は「維新」であり、王政「復古」なのかが、本居宣長を始めとする国学、神道思想を絡めて説明、展開される。
「王政の古(いにしえ)に復することは、(中略) 神武の創業にまでかえっていくことであらねばならない」
「武家以前の世にまで復古することでなければならない」
王政復古の大号令が発せられて、新政府の最高職に神祇官が設けられ、神道を基にした新政府体制の発足に、国学に傾倒していた主人公はまさに狂喜乱舞の思いだったが、その「神祇官」職も世界の流れに追いつくためにいつの間にか廃止され、文部省の一機関になっていく。
また明治政府のあまりにも現実を知らない政策に徳川時代よりも木曾は疲弊していく。木曾の五木、檜木(ひのき)、椹(さわら)、明日檜(あすひ)、高野槙(こうやまき)、鼠子(ねずこ)以外の雑木は徳川時代の名古屋藩でも切り出して売買して良いという藩公の許可も「枝一本 腕一つ、 木一本 首一つ」として、すべての山は国有とされ、切り出してはいけないとされた。
これでは経済的に木曾の生活は成り立っていかない、事を県知事に陳情しようと画策していると、逆に反乱を画策しているとの疑いで、強制的に隠居させられてしまう。
このような時代の動きの中から最後に主人公は発狂してしまうのだが、幕末から明治維新にかけての世の中の動きを庶民の目から描いた歴史として非常に興味深かった。
夜明け前 (第1部 上) (新潮文庫)
東京・板橋を経て、碓井峠から京へ向かう中仙道。幕末から明治への激動期、中仙道の要衝、木曽路の馬籠宿を舞台に、宿の当主・半蔵の生涯を描き切る。
宿を仕切る公的な役目に生涯の大半を捧げながら、自らの信念にも誠実でありたいという半蔵の引き裂かれる思いが、時代の奔流の中で、痛いほど伝わってくる。
そして待ち望んだはずの時代に裏切られてしまった半蔵の苦悩は、歴史の酷薄さ描いて余りある。