ブルックナー:交響曲第8番
そのスケ−ルの大きさな構成で、日本でもファンの多いブルックナーの第8番です。
クラシックの楽しみといえば、指揮者・オーケストラの聴き比べですが、ブル8といえば、昔から、シューリヒト(ウィーンフィル)と並んで、名作に挙げられることの多い1枚です。両アルバムの違いを一言で言えば、前者の「躍動」に対し、後者は「深み」といえばいいでしょうか。どちらのアルバムも、スケールが大きく、美しい楽曲を、オケを十二分に鳴らしながら表現しているのですが、よりゆったりと進んでいくのが後者かと。そのせいもあり、当アルバムは、CD2枚に分けられています。
今の自分としては、前者の躍動感が好きなのですが、どちらも、ブル8を雄弁に再現したアルバムであり、ブルックナー、とりわけブル8ファンにはお奨めの1枚です。
ブルックナー:交響曲全集(9枚組)/Barenboim Bruckner
ブルックナー全集としては格安。しかも、指揮者、オケともに有名と言うのは初心者にとっても安心感を与えると思う。録音も問題なく、良心的な商品だと思う。
さて、内容についてであるが、賛否両論ありそうな演奏だと思う。全体的にテンポは速いし、そのテンポもよく動く、オケの鳴り方もブルックナー演奏でやられがちなもったいぶった鳴り方よりもむしろ軽めで実に見通しがいいのだ。つまり、ちょっとばかりブルックナーっぽいと言えないかもしれないと言うことである。
あくまでも個人的な感想になってしまうが、これが結構いい。
ベルリン・フィルほどのレベルのオケであるから、見通しがよくても傷になるようなことがないおかげで、爽快感のある新鮮なブルックナーに仕上がっている。それはバレンボイムに何もブルックナーだからと言って荘厳と鈍重の危ういバランスの上に立っていなくてもいいんだと言われてるような感じがする。普段、カラヤン、ヨッフム、ジュリーニ、それにたまに朝比奈のブルックナーをなんとなく襟を正して聴いてるようなところがあるのだが、思わず説得されてしまいそうになり、割と気楽な気持ちで聞いてしまっている。
しかし、8番の速度はどうだろうか? CD一枚に収まりきるほどの快速。4楽章ではテンポは大幅にゆれる。う〜ん、とちょっと悩んでしまうが、ふと思い出したことがある。こんなことを書くとフルトヴェングラー・ファンの方に怒られてしまいそうだが、バレンボイム自身が敬愛してやまないフルトヴェングラーがもし現代の、このベルリン・フィルを指揮したらこんな感じになったのではないかと頭をよぎってしまった。もちろん、フルトヴェングラーと違い恐ろしいまでの求心力があるわけではないのだが。
いずれにしても、実はあまり期待していなかったバレンボイムのブルックナーではあったのだが、とても気に入ってしまった。
これくらい聴きやすいブルックナーの全集だったら、初めてのブルックナー全集にはひょっとしたら一番お勧めなのかもしれない。
決定盤と言える演奏があったというわけではないので星は4つにさせていただくが、5つでも決して問題はない。
ブルックナー:交響曲第7番 ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮) ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/SACD
私にとってカラヤンの指揮する音楽は、あまり好きではない、否、というか正直なところは大変複雑で、「大好き」なのだが「大嫌い」という感じだ。こんな表現をしても支離滅裂な馬鹿者としか思われなそうだし、自分でも他に適切な表現が思い浮かばないのは情けない。
カラヤンの指揮する音楽は誰の曲であっても、オケがベルリン・フィルであろうとウィーン・フィルであろうと、間違いなくカラヤン・サウンドに染まってしまうし、作曲家の特徴以上にカラヤンの特徴が全面的に表れてくるので、そこがどうしても好きになれない。しかし、カラヤンの作る音楽は、全体構成においても細部の彫琢においても、完璧に美しく、力強く、繊細でありながらスケールが大きく、スマートで恰好良く、抵抗することが出来ないほど魅了されてしまうのだ。
このベルリン・フィルとのブルックナーの7番は、そのカラヤンらしさが完璧に表現された究極の演奏だと思う。
同曲の演奏では、カラヤン最後の録音となったウィーン・フィルとの録音が、最晩年のカラヤンの心の陰影を映し出したかのような切迫した心情の吐露、悠揚迫らぬ神々しさなど、全てを昇華させたような大変な名演奏だし一般的な評価も非常に高い。
それに対して、この録音は、カラヤンが最もカラヤンらしかった時代に、蜜月の時を迎えていたベルリン・フィルと完璧なまでに音楽を磨き上げ完成度を高めたた演奏で、その完成度たるや、もはや全くケチの付けようがないし、考えられないほどに美しい。この録音が、ベルリン・フィルハーモニーホールではなく、ベルリン・イエス・キリスト教会での録音ということも響きの美しさを際立たせている大きな要素の一つだと思う。
それだけに、最もカラヤン臭い演奏とも言えるが、ブルックナーの音楽になかなか馴染めない人には、この究極のカラヤン・スタイルは大変聴きやすいと思う。
アントン・ブルックナー―魂の山嶺
日本の音楽マスコミでは、ブルックナーは宇宙的な音楽を創造した朴訥な田舎者とされる。俗事に関心を持たず、ひたすら神に仕えた崇高な人。本書はそんな通念を完全に裏切る。弱きを挫き強きにへつらう、自己の売り込みに熱心で、終生結婚願望を持ち続けた、少女趣味・覗き・ネクロフィリアの嗜好をもつ大喰らいの男。田舎言葉と標準語とを巧みに使い分ける仮面都会人だが、洗練された人種からは容易に心底を見破られた。しかし、そんな彼の創造物は人類の財産として残った。そのエニグマを、彼の人生を追う事で明らかにしようとする。
ここで昨年急逝したT君のことを書きたい。田舎の高校を出て京都へ来たが、地元の医大への合格が最高の栄誉であった学校で、彼は担任から「内申書を書かない」とまで脅されたが屈せず、遂に念願を叶えたという。村上春樹「ノルウェーの森」に出てくる「突撃隊」のようなキャラクターで、世間の流れからは明らかに外れていたから、同級生からは奇異の目で見られ、中にはあからさまに揶揄・嘲弄する者まであった。しかし純真で優しい心の持ち主であった彼は、いつも穏やかに応えていた。いつしか私たちのグループに属した彼であったが、私たちでさえ彼に正当な敬意を払っていたかと言われたら、些か自信がない。
大学を出て臨床に進まず、基礎医学の大学院に入った彼は、つい最近某大学の教授になり、旧友であった私たちはようやく胸を撫で下ろしたばかりだった。それが突然の訃報である。通夜に集まった同級生に嫌気がさしたのは私の狷介のなせる業である。このうちの何人かが、かつて彼をどう扱ったか。それを思うとやりきれなかった。世界はタテマエでできている。
T君は真に朴訥な善人であった。ブルックナーとは違う。しかし私には二人が重なって見えたのだ。ブルックナーとは何物であったのか。著者の見事な文章力をもってしても、今も私にはよくわからない。
ブルックナー:交響曲第8番
ヴァントのブルックナーの特色は、テキストを徹底的に研究し忠実な演奏を目指すことや4楽章間の最適な力配分を常に意識した演奏といった点ではヨッフムに似ています。その一方で、テンポ・コントロールは常に安定しつつも決して過度に遅くならず、むしろ時に軽快なさばきを見せる(それゆえ、全体に「重すぎる」感じを与えない)技巧ではシューリヒトと共通するところもあります。さらに、音の凝縮感をだすためにおそらくは相当な練習で音を練りあげる名トレーナーとしての顔ではベームと二重写しとも言えます。しかし、そうした印象を持ちながら聴いたとしても、全体の構成力からはやはりヴァントはヴァントであり、右顧左眄しない解釈にこそ彼の独自性があると思います。
ブルックナーに関する限り、どの演奏も均一な優れたものですが、晩年のベルリン・フィルとの録音は文字通り彼の集大成であったと思います(1〜3番については別の全集 Bruckner: Symphonies No.1 - 9 を参照)。
なお、老練なる名演8番以外もこのコンビで聴きたいのなら、以下のセットがいまなら割安な選択肢でしょう。
Bruckner: Sinfonien
◆第4番変ホ長調「ロマンティック」[1878/80年稿](68:40)1998年1月30日、31日&2月1日
◆第5番変ロ長調[原典版](76:52)1996年1月12日~14日
◆第7番ホ長調[原典版(ハース版)](66:38)1999年11月19日~21日
◆第8番ハ短調[1890年第2稿(ハース版)](89:07)2001年1月19日~22日
◆第9番ニ短調[原典版](61:59)1998年9月18日&20日