中陰の花 (文春文庫)
この世界で無邪気に振る舞う科学の横暴を制止することもできずに戸惑う現代人に対して宗教者、僧侶はどう応える?
分別(有/無)の世界を超えた冥界、あるいは異界という存在の肯定は、オカルトすれすれだが、しかし玄侑氏は背を向けず、真摯に真正面から描こうとしている。
科学的世界観の否定は即、現代の世界を否定するものでない。登場人物たちは科学的合理性からややずれたところにいる人たちで、ある種、近代人が失った「あちら」の世界を垣間見たり、自在に行き来できたりする能力がありながら、心に影をもって生きている姿がここには描かれている。
この小説は生と死が捩れて絡み合った煩悩に苦しむ現代人の救済を描こうとしている。仏教徒として今何ができるかという問いがある。
紙縒りという道具が宇宙の象徴にまで昇華されていくクライマックスはとても印象深く、祈りのもつ強さを感じ取ることができるだろう。
併録されている「朝顔の音」という短編も、また生と死が二分された世界に生きる現代人の引き攣れを描いた佳作である。生と死が一瞬交差する濃密な捩れに出会えば、私たちもまたヒロインとともに訳もわからずただたじろぎ、途方に暮れるほかないのかもしれない。
朝顔が地上と天界(生と死)を繋ぐイメージを造形する筆の運びはなかなか巧みで感心した。
禅的生活 (ちくま新書)
禅についても仏教についても、書店に行けばめまいがするほど多くの
書物が並んでいる。その中でこの新書の優れた点は、第一に「説教くさくない」ところにある。つまり読者を高みから見下ろすところがなく、対等の地平でなにごとかを伝えようとする姿勢が一貫している。
第二に、これは注意して読まないと見落とす可能性があるが、著者の宗派である臨済宗のよい部分が語られている。少し引用する。
「ある朝私はやや捨て鉢に、『山の上の桜も、山の下の桜も、同じ桜でございます』と答えた。すると老師は今までになく強い眼差しで私を睨みつけ、
『そうか?本当にそうか?』とおっしゃった。そのときの、背筋に電気が走ったような怖ろしい感触は今も忘れられない」(引用終わり)。
公案が適切に示され、それに答えることでゆっくりと階段をのぼる弟子の
喜びが語られる。と同時に、弟子にとって老師は、時に「電気が走るほどに」
怖ろしい存在であることが明示される。効果的に意味のある叱り方をしてくださる老師がいなければ、座禅は簡単にただの苦行にもなってしまう。著者は
老師とよい師弟関係を持続した方だと思う。そのよろこびを、行間に感じるのである。
まわりみち極楽論―人生の不安にこたえる (朝日文庫)
死って何?悟りって何?幸せって何?と、人生の大いなる疑問にヒントを
求めている人にお勧めの一冊です。
半信半疑だけれど、「何となくこういう事なのかな?」と思えるようになる
かもしれません。それは著者が仏教に限定せず、物理学や神道、自らの仮説に
基づいて、著者自身の言葉として語られているからだと思います。
また、引用される歌が著者の意見を一言で代弁しています。心に残ったのは
「幼子の 次第次第に智慧づきて 仏に遠く なるぞ悲しき」
と言う歌でした。何となく信用できて温かみがあるので、例えて言うと天国にいる
祖父や祖母から話を聞いているような一冊です。