路地へ中上健次の残したフィルム [DVD]
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千年の愉楽 (河出文庫―BUNGEI Collection)
読みにくい。気づくと2,3行句読点なしだ。誰が主語だかかわらなくなる。そのうちにオバの語りにはまっていくのだ。中上健次の意図通りに。
内容は凄まじい。強盗殺人、人身売買、レイプ…学校の推薦図書にはならない内容。
しかし、美しい。まさに愉楽。死すら香気漂う。昔語りを聞いている気がする。読んでいる文字はそのまま、風の音、鳥の声、花の香りへと変わり、路地にあたる強い日差しが網膜を熱く焼く気までする。
現代人よ、手軽なエロ小説を読むより、もっと刺激的で、神話(神と人と動物がもっと親しかった時代)的で五感を揺さぶる世界がここに開けている。中上氏の中でも一番のお薦め書である。
火まつり [DVD]
大自然と土着信仰、 その中の性愛が叙事詩的に描かれていて、見て面白い映画だな〜と思いました。汗臭い男のニオイがくらくらするくらい香ってきます。北大路欣也の褌姿もイイ。野性的を通り越して確かにかなりホモっぽい。そんな男臭さと対比される山や海の画には艶っぽいなまめかしさが感じられてとっても映像美。
とーとつな終焉でその辺はやっぱりよく分かりませんが、自然といえばエコ、犯罪といえばサイコ、といった近年のありがちパターンとは違う骨太感が個人的に好きな映画です。
当時は話題になった反面、不評も多かった映画らしいですが、商業主義的になりすぎ、もしくわ自分の世界に入りすぎな昨今の邦画にこーゆー土着&信仰的な気概が戻って欲しいと思います。
岬 (文春文庫 な 4-1)
あえて辛い点をつけます。
生きていたらノーベル文学賞候補の筆頭に上がっていたことはまちがいない偉大な作家ですが、若いときの作品、とくに芥川賞をもらうまでのころの作品は、出来不出来がはげしく玉石混交というのが実情なのです。
この作品集には4篇収められていますが、そのうち2作は失敗作だと思います。「黄金比の朝」は「19歳の地図」と同じテーマを描き、舞台や登場人物の性格まで似ていますが、作品としては月とすっぽん。後者では結末近く、いたずら電話をかけた相手の女が突然泣き出す、その無教養な言葉遣いが後光を放つほどに輝いているのに、前者では同じ無教養な女の言葉が、ただダラダラと書き連ねられて、何の効果も現れない、ただの無教養な女のセリフに終わっています。
「火宅」はドメスティック・ヴァイオレンスが題材。これはどんな言語に訳されてもその意味が伝わるであろうギリシャ悲劇のような普遍性を持った傑作。
「浄徳寺ツァー」は俗語使いが上滑りした作品でした。
本作品集が玉石混交なのは、作家が若かったということもあるのですが、それよりも何よりも作者が俗語を多用するという冒険を行っているから。作家は自分の生活圏で使われている言葉を使って作品を書くわけですが、ただその言葉の親近感に甘えて書くと、イモ兄ちゃんの自己満ロックのような作品が出来上がってしまう。中上健次でさえその轍を踏んでいるのです。
そのかわり、いい作品はまるで宝石のように輝く。本来ならばこの作品集のうち2作は捨てて、他の作品集のいい作品と組み合わせ、佳作だけで短編集を編むのが筋だと思うのですが、出版社の都合でそれができなかったのでしょう。
ある作家に人気が出ると出版社が群がり、作品を強要し、結果内容の薄い作品が量産されてしまう。日本文学出版の構造的な問題がこの時期からすでに表れていたのだと思います。
同人雑誌が文学を支えていられた時代ははるかに昔。商業出版でなければ小説というジャンルが維持できない以上、その品質を支えるのは読者の厳しい審美眼だけなのです。商業出版は作品の形さえできていれば、どんな代物でも売りつけようとします。中上健次でもダメなものはダメ。そういえる厳しい眼を持たないと、いつまでも出版社の提供する似非文学作品をありがたがることになります。
枯木灘 (河出文庫 102A)
既に社会的評価の定まった本作ですが、自分なりの解釈を交え、レビューにしたいと思います。
一読のみの感想です、しかし、そこに再読したかのような感覚があったのが何故か不思議です。
実は本作、何度か読了まで挫折を重ねています。その文体には、ある種独善的とも言えるほどの
迫真性があり、特異な読力を要求されるからです。こうしたことは、近年の作風にはあり得ないものでしょう。
幸い、ネットに執筆当時のエッセイを見つたので、以下、一部抜粋します。
「ドストエフスキイの小説『罪と罰』を読んだのは高校時代だった、と思う。いや読んだのではなく、
読みかけて途中退屈し、後はとばし読みしたのは、である。それからしばらくして、私にはその
ドストエフスキイは、軽蔑と嘲笑の対象だった。(中略)よくこんなに退屈なものを冗長に書けるものだと、
感じ入り、また軽蔑した。文庫本を次々買って来て読み囓りはするが、冗長な文章につきあっているほど
暇じゃない、とほうり出した。実際、暇はなかった。聴きたいジャズが、朝から自分の耳の中で鳴っていたし、
借りていた部屋の外はペテルブルグではなく一千万の都会の朝だ」
ドフトエフスキーについては、私にとっても似たようなものですが、この「枯木灘」にも、今、同様の思いを抱きます。
この作品は、熊野という場の根拠に最善を恵まれたろう、作者による畢生の名作と評価されますが、その可能性を確かめる意味で、
自身の率直な感想を言いたいと思います。これには柄谷氏の評論などの影響もありますが、凡そそれは、一点に集約されます。
本作中、最も印象的な部分を引きます。
「フサは秋幸を連れて繁蔵と逢引した。まめを繁蔵がかみくだいて秋幸に食べさせた、と言った。いつの日か分からぬが、
映画に行き、秋幸がその画面の中のおどけた男の仕種が気味悪く早く帰ろうと言った。それがチャップリンだった、と後でわかった。
(中略)郁男は自殺した。美恵は気が触れた。秋幸一人、無傷だった。いや秋幸でさえ、ひとたびこの、父と父の子と、
母と母の子の家を出ると、無傷では済まされない。」(P136)
この小説は、中上健次の内面世界の劇です。内面化された熊野の地と血縁は、現実のそれとは別ものである筈です。
そこで中上健次少年にとってのチャップリンと言う他者が告白されます。専横な力の象徴としての父、その柵の下で、主人公、秋幸は、
発作的に兄弟を殺してしまい、その小説世界から逃れ、隠されてしまいます。終結にはそして、幼児性を象徴する徹が強調されてゆきます。
この小説は、中上健次という他者性そのものです。私は終止その人とその世界に突き放されたまま、それを読み終えました。
こんな小説を読んだことは、正直に言ってありません。小説自体が隣人そのものである様なものです。
[強烈なリアリティによる自己の寓話]と、言ってみてもよいでしょうか?多くの作家がこのような境遇に恵まれることはないでしょうし、
以降の日本文学は、この成果を巧みにスキップしてしまったようで、この頃の小説は、小説然として佇んでいる気がします。
「かくして、『枯木灘』という私の処女長篇は、ドストエフスキイという作家に反発しながら書いた。だが、いまひるがえってみると、
反発や軽蔑とは触発というものと同義である事に気づくのである。つまり、さながら敬虔なクリスチャンが聖書をめくり一節を読むように、
深夜、一人、ドストエフスキイを読んでいたように思えてくるのである」
嘗て作家のそうしたように、今、この小説を読み返す者のどれほどあるのか分かりません。
現実の全てである筈もない小説表現の担うべき分とは、ではその先にどんな梢を伸ばすべきなのか、柔らかな葉の表に日を撥ね得るのか、
「枯木灘」とは、寂しい碑銘にならないことを切に願います。
夢の力 (1981年) (角川文庫)