火垂るの墓 完全保存版 [DVD]
極限の戦場で兵士が大局をみて動くことなどできない。
ある作家が戦場体験をもとにそう述べています。
ここに登場する人物すべてがそうではないでしょうか。
大勝利の宣伝(プロパガンダ)とは裏腹に窮乏していく物資、
戦争に奪われ帰って来ない家族。
大切なものが次々に奪われていく中で自分が守れるものが
どんどん少なくなっていく。本来社会全体として守られるべき
弱者(子供たち)は打ち捨てられていく。
確かに清太と節子には生存の方法があったかもしれない。
しかしあの状況下で彼らは彼らなりに考え判断し行動した。
ただそういう厳然とした事実があるだけでその正誤を
評価しようとすること自体が傲慢なことだと思います。
他の方がいっているようにこの映画は反戦映画ではないと思います。
子供たちが社会の保護から投げ出されるとどうなるか
この映画のテーマはそこだと思います。このような状況は
戦争下で起こりやすい。それだけのことなのでしょう。
しかし、現実には戦争だけにとどまりません。
この国でも孤独死、餓死が蔓延しています。
子供が閉鎖空間に閉じ込められ餓死した悲しい事件があったばかりです。
それは数メートル先(お隣)では食料が豊富にありクーラーがきいている
状況の下で起きているのです。
火垂るの墓 [Blu-ray]
このアニメは少年の心が破壊されていく悲劇であり、兄による妹殺しという犯罪映画でもある、
そして状況の犠牲者を描いたお涙頂戴映画としてだけの視点であればじつに見事な作品とも表現できる、
最初の30分ほど、空襲はあるがそれを除けば淡々としたのどかな日常の描写はアニメならではの時間表現が素晴らしいと思う、 風景描写も間借りする三畳間の前にあるのが枇杷の木と確認できるほど細かいものでアニメとすれば不必要だろうと感じるほどだ、
清太が節子に母の死を知らせないのは指摘するまでも無いだろうが自分自身が母の死を認めたくないからである、 現実を受け入れることを拒否した十四歳の少年の心が徐々に破壊されてゆき遂には空襲時の火事場泥棒を嬉々として楽しむサイコパス化してしまう(火事場泥棒を始めた時点で清太は完全なアナーキストになっている)、 空襲で焼ける町に喝采を浴びせる清太の心に爆発する破壊願望が節子の死という彼にとって唯一の支えを失った時には自らの衰弱死を招くしかないのは当然の帰結なのだろう、 だから清太の心に傷が入った瞬間と表現できるむずかる節子のそばで鉄棒で回り続けるシーンの演出は見事だとおもう、
ところがである、 母の死をおばさんにすぐ告げなかった付近から脚本が極めて胡散臭くなってしまうのだ、
清太の父親は大日本帝国海軍大佐という設定らしい、当時の軍隊階級の知識がなくなってしまった現在では理解しにくいが相当な出世と考えてよい、 大佐は現場の大部隊のリーダー格であり場合によっては五千人以上を率いることもある、 大和・武蔵・赤城・加賀等の大艦の艦長も大佐であり、父が巡洋艦摩耶(まや)に乗っていたと劇中描写があるが、大佐であれば艦長だった可能性も高いのだ、 清太が手にする預金額もそれで納得がいく(大佐年収の2倍弱が預金されていたと判断できる)、
そこで給与生活者である清太の家は日々の暮らしをどうやってまかなっていたか?と考えてみる、 父が洋上勤務に就く前に給与は家で受け取れるようにしていたと考えるのが正しい、 そうすると母の死以後、この物語はSFっぽい展開になっていることがわかるでしょう、
父が出征中、母が受け取っていた給与は母の死後は清太が受け取れるのだ、ところが劇中その描写が無い、あいまいに父に宛てた手紙の返事がないという描写のみで済ませてしまっているのだ、 帝国海軍が清太の父に支払っていた給与はいったいどこにいってしまったのだろう?
この話が架空の国のある日ある時を描いたというのであれば少しの疑問もわかないのだが、 本作が大日本帝国の昭和20年6月5日から9月21日までの神戸・西宮地区と場所も時間も特定して語られているからには不思議に思わないほうがおかしいのである、
巡洋艦摩耶は昭和19年10月23日のレイテ沖海戦で沈没しているから父は戦死した可能性が高い、 するとますますこの話はご都合主義になってくる、 大佐まで進級した軍人であれば当然に軍人恩給の受給資格がある、 戦死後は家族が家族手当てを受給する資格が当然発生する、 当時の民法においては清太の家の財産は清太がすべて相続である(母親に相続権は無い)、 当時の帝国海軍がレイテ沖敗戦の結果を知らせぬために戦死公報を遅らせていた可能性はあるのだが、いずれにしても清太は大佐の収入を受け取れたのだ、
当時のいわゆる家制度の重要さを自覚している当時の大人たちがどうして高額を受け取れるのに手続きしないのか? そこで私は思うのだ、本作の製作者達は本作の主要な鑑賞者達はそんな当時の事情には疎いものばかりでごまかせると狡猾に考えたのではないかと、
これがもし木下恵介であれば絶対にこんな脚本にはしない、 木下は戦後連続して昭和前期までを舞台にした封建的な家制度を攻撃する映画を作ったが当時の事情をよく知る者たちばかりが鑑賞するという緊張の中で映画製作していたために上記のような脇の甘い脚本は用意できなかったわけである、
清太が最初に泥棒するのは、米を譲ってくれなくなった百姓のおっちゃんに「海軍さんの息子やろ、しっかりせなあかんで」と軽く叱責された直後であることに観客は注意しなければならい、 そう、このアニメは大日本帝国海軍軍人の息子を役立たずに描くことで帝国海軍批判することが根底にあるのだ、 役立たずの清太は学校に行かず、軍需工場を手伝わず、身近の防火にさえ手を貸さす節子と逃げ回りオママゴトに興じるだけなのだ、 そんな少年には「大日本帝国が負けたんですか?」と発言する資格は無いのである、
アナーキスト(無政府主義者)化した清太だがさすがに母の遺骨は手元に置き続ける、ところが節子が母の死を知ってしまった以後も位牌を作り二人で手を合わせることをしない、 清太が持ち歩く小刀で棒を刻み母の名を記すだけで位牌になるのにそうしない、 アナーキストが無神論者化するという見事な演出だといっていいのかもしれない、
清太が払い戻す預金額の比較に永井荷風「断腸亭日乗」昭和20年4月2日の文を引く、曰く、「郵便切手七銭のところ昨日より十銭となる。」
火垂るの墓 (徳間アニメ絵本)
神戸に住む清太と節子は、病弱ながらも優しい母とともに幸せな生活を送っていました。
しかし、1945年6月5日、神戸を襲った空襲で母を亡くし、三宮の伯母の家に身を寄せます。
母の遺骨を持って伯母の家に帰ったものの、節子には母の死を言い出せない清太の前に、節子は母を恋しがって行方を聞きます。このとき、なんとも応え様の無い清太の様子が心に響きます。
空襲の2日後、清太は元の家から非常用の食糧を取ってきます。にしんや卵などは伯母も喜び、大歓迎します。
その日の夜、伯母には内緒で節子にドロップをやったとき…節子は大喜びで草の中を駆け回ります。「ドロップ! ドロップ!」と駆け回る節子の周りには蛍がうれしそうに一緒に飛んでいました。
その食糧も底をつき、いよいよ三宮の伯母の家には居辛くなります。
母の形見の着物も米に変え、なんとか食糧を提供してきたふたりでしたが、その米もつきたとき、伯母はいよいよ厄介者としてふたりを扱います。
そんな中、食糧の問題から伯母と喧嘩したふたりは、伯母の家を出て川辺の防空壕へ身を寄せることにします。
防空壕で暮らしてもやっぱり食糧の確保は目途がつきません。
やむなく農家から盗みを働いた清太でしたが、それが見付かり交番に突き出されたとき、迎えに来た節子の顔を見た清太は、涙を止めることはできませんでした。
……ふたりで生きて行くため、この先も盗みを止めるわけには行かない――清太自身、このことをよく知っていたからです。
いよいよ食糧が尽き、節子が身体を壊します。連れて行った病院でも、これと言った解決策もなく、ついに両親が残した貯金も底をつきました。
そんなとき、清太は銀行で、立ち直れないほどの衝撃を受けます――日本が敗戦し、父が乗った戦艦も海に沈んだというのです!
蛍とともに生き、蛍とともに死んだ節子。そんな節子を見守る清太。
映画を思い出して浸りながら読むと、すごく感動できる本です。
火垂るの墓 [VHS]
これは、確かトトロと同時上映でサブ的な位置付けの映画だと記憶しています。しかし私にはこちらの方が遥かに印象に残ってます。
糸井氏の当時の映画キャッチコピー「14歳と4歳でいきようと思った」は、これ以上のない言葉だと思います。あの親戚のおばさんは本当にひどい人間でしたが、このような結末になるなら懇願しても居座るべきだったし、壕生活になっても戻る機会もあったろう。と、子供の私にさえ思いました。しかし、大人になった今だからこそ、不器用ながら上記キャッチコピーのように生きることを選択した意味が少しは分かったような気持ちもします。神戸の構内で瀕死の状態で発した言葉「1945年×月×日、僕は死んだ」という言葉は小学生だった私でも衝撃的でした。また駅員が佐久間ドロップの缶を放り投げて蛍が舞う瞬間、映画の描写力もさる事ながら、とてつもなく切なくもあり温かい気分も交錯した不思議な気持ちになりました。一番印象に残ってるのは海岸を遠泳していて沖から、昔の記憶が甦り母の言葉「カルピス冷えてるよ」という言葉に本当に涙しました。そのあまりに日常的な台詞と今清太が置かれている状況のギャップに激しい同情の念を感じました。
これは作家の野坂氏による、ほぼノンフィクションというのも忘れてはいけません。是非うちらのような若い世代は見てほしい作品ですね。
確かに現在は色々な意味で暗い世の中かもしれませんが、人を失う悲しみを当時程味わう事は無い。月並みないい方ですが、或意味現在は恵まれてるのかなとも思います。
当時映画のパンフに掲載されていた同氏の言葉「アニメ映画と鷹をくくっていたが、その当時の再現力に圧倒された」「私は映画程妹に優しくできなかった」という台詞が印象的でした。
スタジオジブリの歌
ジブリ作品のベストアルバム。大人世代は「天空の城ラピュタ」から「崖の上のポニョ」まで、それぞれの時代にそれぞれの世代の様々な思い出があるはず。
昨年末の、紅白歌合戦でのパフォーマンスは素晴らしかった。最初の「散歩」から懐かしさが込み上げ感動した。久しぶりに聴いたが、やはり心にちゃんと根付いていたようだ。
不思議だったのが、まだ作品を見たことがない「崖の上のポニョ」を聴いて、泣いてしまったことだ。イントロで沸き上がってくる期待感、小さな女の子のかわいらしい声と魔法の言葉のような歌詞、サビ前で再び高揚してくる壮大なオーケストラのハーモニー、あくなきポップソングへの愛を感じた。映画の思い出とリンクせずとも、楽曲そのものの人懐っこさが十分聴くものを引き付ける。
ジブリ作品という共通項で多種多様な曲が集められたアルバム。しかし、どれも同じ匂いがする楽曲たち。このCDは間違いなく名作集だ。待った甲斐があった。
手を変え品を変え、ベストアルバムが無秩序に乱発されている世の中。このキャリアでベスト?1年に3枚?笑わせないでほしい。
こういう作品をベストアルバムというんだ。