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岡本きら 季刊 ココア共和国vol.18

 小林稔の名前を「ココア共和国」で見つけたときは、びっくりしてしまった。まさか、あの小林稔ではないだろうと思ったが、あの小林稔だった。あの、というのは「ヒメーロス」の、という意味である。 小林稔のことばは、とてもめんどうくさい。読みはじめると、丁寧にことばを往復しないといけない。何度も読まないと、私の「肉体」が動いてくれない。やっと動き出してみても、それはほんの一部のことばに対してであって、書かれていることば全部をたどりきれるわけではない。 まあ、詩なんて、全部わからなくてもいい。わかったところだけわかればいいと私は思っているが、それにしても「わかった」と思える部分、「誤読」できる部分がとても少なく、つらい気持ちになる。 この感じは秋亜綺羅の詩を読んだときの感じとは正反対。 秋亜綺羅のことばを読むとき、私は一部がわかれば(共感できれば)、それで満足してしまう。ほかの部分がわからなくても、ぜんぜん気にならない。一部を自分勝手に「誤読」するだけなのだが、それで全部を読んだ気持ちになれる。で、その一部に「ケチ」をつけて、ひとりで満足する。--これが、私の秋亜綺羅の詩に向き合うときの姿勢。 小林稔のことばに対しては、そんな感じでは向き合えない。 向き合えないのだけれど、向き合いたい気持ちがあって、何か書いてしまう。私が書くことは、読んだ瞬間に思ったことだけなので、とてもいいかげんなものなのだが、その「いいかげん」を書いておきたいという気持ちを抑えることができない。 きょう読むのは「二、感情の闘争」。タイトルから推測できるかもしれないが、私が感想を書くのは「記憶から滑り落ちた四つの断片」のうちの「二」の部分である。そして、その「部分」をさらに「部分」にしてしまって、一部だけを取り上げる。 「概略」として言えば、この作品はゴッホの絵を見たときの小林の感想である。小林は「ゴッホ」と書かずに「ヴィンセント」と書いているが、「ヴィンセント・ファン・ゴッホ」と思って私は読んだ。彼の見た麦畑はメタファーであり、本質は彼の心の裡(うち)に実在した。彼が覗いた心の風景を私は垣間見た。 私は何を「垣間見た」のか。麦畑か、彼の心の裡か。 そう思った瞬間、私の「肉体」は、激しくねじれた。前を向いたまま、真後ろを見るような、何か不可能なものを感じた。このままでは、骨が折れる。神経が切れてしまう。何が、私の「肉体」を一気にねじったのか。その力が一気すぎて(瞬間的すぎて)、私の「肉体」はその衝撃についていっていない。ほんとうはその衝撃のために死んでしまっているのかもしれないが、あまりに早く、そしてその力が強すぎたために、私の「肉体」は「まだ生きている」と錯覚している。そういう感じだ。彼が覗いた心の風景を私は垣間見た。 「覗いた」と「垣間見た」というふたつの「動詞」がある。それは厳密に言えば小林が書いているように「ふたつ」だけれど、私は「ひとつ」の「動詞」として感じた。「見る」という「動詞」で言い表せる「動き」であり、その「動詞」の「主語」は「目」であると言えると思う。 小林は「彼(ヴィンセント)」が「覗いた(見た)」、「私」は「垣間見た(見た)」と書き分けているが、「目」は「見た」と言い換えると、「彼」と「私」は「ひとつ」の「肉体」になる。 そういう「不思議」がここにある。 で、その「見た」もの、「対象」は何なのか。「心の風景」と小林は書いているが、それは何を指しているのか。彼の見た麦畑はメタファーであり、本質は彼の心の裡(うち)に実在した。 直前の、この文章の中に「見たもの(対象)」が書かれているはずである。しかし、それが何であるか、特定するのは難しい。 読んだ瞬間、麦畑?心の裡(うち)に実在した本質? どっちだろう、と思ったのだが、「麦畑」は小林が書いてるままの形で引用できるが「本質」の方は、私の感じたこと、考えたことを言い直そうとするとことばの順序を入れ換えないといけない。これは明らかな私の「誤読」なのだが、「誤読」しないことには、私のことばは動かないし、「肉体」も動かない。 で、そう書いてしまったのだが。 あるいは「本質」と「心の裡」は同じものを別な角度から言い直したものかもしれない。同義反復かもしれない。「本質は彼の心の裡である」を言い直したものとも読むことができそうである。 このままでは、私のことばは動かないので、少し逆戻りをする。別な視点からことばを動かし直してみる。 つまり、彼の見た麦畑はメタファーであり、本質は彼の心の裡(うち)に実在した。 ここに書かれている「動詞」を中心に読み直す。 まず最初に「見た」という動詞があらわれる。「彼」は「見た」。何を「見た」か。「麦畑」を「見た」。この「動詞」の動きを、私の「肉体」は追認することができる。ゴッホが見たであろう「麦畑」を、私はゴッホの絵を仲介にして「見る」ことができる。絵を見るとき、私の「目」とゴッホの「目」は「同じ麦畑」を見る。つまり、私は絵ではなく、ゴッホの見た麦畑を見ていると感じる。同時に、私が「私の目」だけで「見た」ときは、こんな感じではないのだけれど、「ゴッホの目」をとおせば、こんな絵になると思って見る。 実在の麦畑-目(ゴッホの目/私の目)-麦畑の絵。 この「私の目」を「小林の目」と言い直すと、それはゴッホの麦畑の絵を見たときの小林の体験(小林と、ゴッホ、ゴッホの絵)の関係になると思う。 実在の麦畑-目-絵の麦畑は、別々のものなのだが、つながってしまっていて、切り離せないと私は考えるけれど、この切り離せないものを、小林は切り離す。 「メタファー」と「本質」ということばを導入することによって。 私たちがふつうに考える「実在の麦畑」は小林によれば「メタファー(比喩)」である。ほんとうは存在しない。あるいは「存在する場」が「現実」ではなく「概念」であると言い換えるべきか。 「比喩」とはそこに存在しないものを借りて、対象の本質を語ることである。「彼女ははバラである」というとき、「彼女」の「肉体」は「バラ」ではない。だからこそ「バラ」という「比喩」が成り立ち、その「比喩」は「美しい(抽出した概念)」という「本質」を代弁する。 小林は、そういう「実在」と「比喩」と「本質」の関係を、独自の方法で読み替えている。 「本質」とは「ほんとうの麦畑」であり、このときの「ほんとうの麦畑」とは「実在の麦畑」ではなく「本質の麦畑」という全体的な真理のようなもの。ゴッホ自身によって鍛え上げられた意識のよなもの。精神のようなもの。それがゴッホの「心の裡」にあるからこそ、それを絵にしている。そのとき絵としてあらわれた「麦畑」は「実在」ではなく「メタファー」である。「心の裡」にあるものが「本質」であり、「心の外(肉体の外/外界)」にあるのものは、その「本質」を「目」に見えるようにするための「比喩(メタファー)」である。 うーん。書いていて、だんだんめんどうになってくる。どこかで奇妙にことばが交錯して、ことばがずれていく。 で、また少しとらえ方を変えてみる。彼の見た麦畑はメタファーであり、本質は彼の心の裡(うち)に実在した。 この文章には、「見た」とは別に、「あり(ある)」という動詞と「実在した(実在する)」という動詞が登場する。「ある」と「実在する」は、まあ、「意味」は同じかもしれない。「実在」を「ある」と言い直してみると、私が先に書いたこと、「本質は彼の心の裡にある→本質は彼の心の裡である→彼の心の裡は本質である」という一種の同義反復が動き出すのだが……。 この「ある」と「実在する」という「動詞」を、小林は何で確かめるかというと「見る」という「動詞」で確かめている。「目」という「肉体」で確かめている。「目」という「肉体」が「ある/実在する」を確かめている/見ている。 少しことばを変えながら言い直すと「心の裡に実在する本質」は、目で見ることができる「絵」にすることで、「心の外」に取り出すことができる。その「本質」は「麦畑」として描かれる。描かれた「麦畑」は「心の裡に実在する本質」であるけれど、「本質」そのものではなく「麦畑」という「姿」を借りているので、それは「メタファー」と言い直すこともできる。 だが、そう言い直してしまうと「彼の見た麦畑はメタファーであり」ということばはまちがっていることになる。外界の「麦畑」こそが「メタファー」であるはずだ。 どうも「メタファー」ということばを中心に、「外界の麦畑」と「心の裡の本質としての麦畑」がつながり、重なるのだが、それを外界の麦畑-「メタファー」-心の裡の本質(としての麦畑) と書いてみると、あれっ、実在の麦畑-目(ゴッホの目/私の目)-麦畑の絵 何か似ていない? 同じじゃない? 端折って書いてしまうと、「メタファー」と「目」が同じものになってしまわないか。何がなんだか、わからない。 それやこれやで、彼が覗いた心の風景を私は垣間見た。 「心の風景」って何なのだ、と思ってしまう。「心の裡の本質としての麦畑」と言い換えうるのかもしれないが、そんな「心の裡」にあるものなんか、「目」では見えないぞ。ことばで「見える」と錯覚させているだけじゃないか。 なんて、非難は、見当違いだろうなあ。 「目」に見えないものを「見える」ようにするのが「ことば」であると、小林はいうだけだろう。 ということを「結論」にして、きょうの感想を終わってもいいのだけれど。もう少しつけくわえて「結論」らしくととのえてもいいのだけれど、私は「結論」というのは「うそ」だと思っているので、その「うそ」をさらにゆさぶって、隠していることを吐かせてみたい気持ちになる。 先に引用し、あれこれ書いてきた文章につづいて、次の一文がある。ナイフの刃の跡を画布に走らせる手の動きが見える。 ここにも「動詞」が幾つか登場する。「走らせる(走る)」「動き(動く)」「見える」。そして、そこに「目」以外の「肉体」だ登場する。「走る」は「足」を呼び起こすが、直接には書かれていない。直接書かれているのは「手」。「手の動きが見える」。この「手の動き」が魅力的である。私の「肉体」を刺戟する。書かれていない「足」は「手」の動きの速さとなって刺戟してくる。力を込めて動かし、その力が動きを速くする。そんなふうに、ことばと「肉体」を刺戟する。 「心の裡に実在する本質」を「目」に見える「絵」にする。そのとき「手」が「動く」。「絵にする」は「絵を描く」であり、「描く」は「手を動かす」である。 この「肉体」の動き、「手」の「動き」によって、ゴッホの外の世界の麦畑-手(の動き)-ゴッホの心の裡の本質としての麦畑 がつながる。「メタファー」「目」「手」が絡み合う。この絡み合いは、「メタファー」という「概念」を「肉体」に取り戻す、「肉体化する」ための動きのように感じられる。このとき、この動き全体が「絵」として結晶する。「ひとつ」の「もの/こと/じけん」になる。 実在として「ある」麦畑、ゴッホの心の裡に「ある」本質としての麦畑が、絵としての麦畑に「なる」。「ある」を「なる」に変えるのが「肉体の動き」である。「手」の「動き」である。「動詞」が「存在(ある)」を「なる(事件)」に変える。「ある」と「なる」の変化、生成の「現場」に「肉体」が動いている。 このあとも、小林のことばは延々と動く。そして、それは概念的なことば、抽象的なことばがどんどん増えることにつながるのだが、それが単に「頭」で動かしていることばではなく、どこかで「肉体」と深くからみあっている感じが伝わってきて、とても刺激的だ。「肉体」とどうからみあっているか、もっと丁寧に読まないといけないのだが、もう時間を超過してしまった。私は40分を超すと、目が疲れて見えにくくなる。考えも、ことばもそれにつれて縺れはじめる。中途半端だけれど、ここでやめておく。 他の執筆者の作品も充実している。 季刊 ココア共和国vol.18 関連情報

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娘のためにこうにゅうしました。とても気に入ってくれました!有り難う御座いました。 キラ★メキ おしゃれサロン! ~わたしのしごとは美容師さん~ 関連情報

岡本きら アニメ暗殺教室(マグネットクリップ付き) 2016年 カレンダー 壁掛け

今日届きました!とても最高です!想像より大きいし、クラスメンバーの誕生日全部のっていてとても嬉しいです!なにより暗殺教室好きにはとても最高です!(*'∀人)ありがとうございます♪ アニメ暗殺教室(マグネットクリップ付き) 2016年 カレンダー 壁掛け 関連情報

岡本きら 十鬼の絆 花結綴り(通常版) (2013年発売予定) 予約特典(ドラマCD)付き

本編があまりにも酷かったので、このFDも購入を躊躇していましたが
(ちなみに、本編は途中でやめちゃいました)
レビューを見てそんなに悪くはないかなと、消化不良のモヤモヤをどうにかしたく購入を決めた。
結果は良かったと思う。

本編では何で?何で?と疑問に思う事が、こちらで全部完結されてます。
はぐれ鬼や十鬼衆のそれぞれの抱えた苦悩や、何でああなったのかが深く掘り下げてあり
やっと、「十鬼の絆」が理解できました。
本編での消化不良を解決したい方は購入するといいでしょう。

個人的には八千代がプレイ対象になってたところが良かったです。意外な一面がみれてニヤリとしてしまった。 十鬼の絆 花結綴り(通常版) (2013年発売予定) 予約特典(ドラマCD)付き 関連情報