林芙美子紀行集 下駄で歩いた巴里 (岩波文庫)
林芙美子はどこを歩いても下駄で、いや素足で歩いている。いつもそんな地べたを感じさせる文章だ。パリにいても貧乏だが、だからこそ生活者のパリを感じさせてくれる。
浮雲 (新潮文庫)
日常の惰性の現実から逃れるようにゆき子はタイピストとして仏印にわたる。そこで出会った富岡。富岡もまた漂流者である。幻のような占領下の仏印で、二人は結ばれる。日本占領下のサイゴンやダラットはオーウェルやモームが描いた植民地とどこか共通性を持つ。ここでの三角関係は断片的な記憶としてあとで描かれていく。配線によってそれぞれ日本に戻った二人。帰ってきた二人にはもはや希望はない。ゆき子は富岡を求めるのだが、富岡はもはや仏印の富岡ではない。ふたりは傷つけあう。ゆき子の死によって話は突然終わる。まもなく突然生涯を閉じる林芙美子の思いがだぶってくる。ここには放浪記や北岸部隊の明るさはもうない。未来は見えずあるのは過去。行き先はどこにも見いだせない。
放浪記 (新潮文庫)
ふしぎな日記だ。
金がない、詩が売れない、腹がすいた、仕事が辛い、捨てた男が恋しい、母も恋しい、いっそ死にたい、さもなければ身売りしてしまおうか。
それらをみな一緒くたに、小気味よいリズムの文章と詩に巻き込んでしまう。
頽廃的なことばかり延々と書き連ねてあるのに、何だか軽妙なのだ。
たぶん、少女時代を過ごした尾道の海のように、根が明るいひとなんだろう。
そして腹の底には、赤いマグマをふつふつとたぎらせている。書きたい読みたい人恋しい。
だから文章が湿っぽくならない。どこか一点がすこんと抜けて、愚痴が愚痴に聞こえない。
放浪記 [DVD]
現在では舞台として森光子の当たり役中の当たり役として著名な作品、ぜひ森光子版舞台の良き理解者によるレビュウ書き込みを期待します、
高峰秀子は当時を代表する美人女優の一人、とても器用な人であり幅広い役を難なくこなした大女優です、他の美人女優と一線を画して彼女を個性付けているのが一連の成瀬作品における水商売関連の役(本作・浮雲・女が階段を、など)でしょう、
生活苦や苦労・心労を抱えた日常に耐えながら健気に暮そうとする当時の日本女性を演じて高峰ほどにリアルな存在感を醸し出せた美人女優はまれでしょう、田中絹代直系の女優といえます、60年代を最後に邦画が衰退し「映画女優」という職業も軌を一にしたため高峰を継ぐ美人女優を育てられなかったのが日本のショービジネス界となるとおもう、テレビ時代となって苦労する美女ではなく”おしん”のような女優を、と見る側が望んだ可能性もありますが、
高峰秀子はイングリッド・バーグマンやジョディ・フォスターと同類の骨太のグラマーであったことを手足の長い女優全盛の21世紀のいまだからこそ指摘しておくのも一興でしょう、
なお、本作でもっとも傑作な登場人物は宝田明扮する作家です、
めし [DVD]
夫婦間でいざこざがあって、それが解決したりしなかったりするというのが成瀬映画に多いストーリーラインだが、これもそういう一本。
原節子が小津映画とはちょっと違っていたのでビックリしました。声がちょっと高く、若々しい。
夫婦の下に転がり込んでくるのが、夫(上原謙)の姪・里子(島崎雪子)。
で、この二人の関係がちょっと艶っぽくみえる。これは脚本、演出、カメラワークの巧みさからくるが、成瀬映画はこういう艶っぽさが随所に見え隠れするので要注意。地味で倦怠でというイメージだけではない。
二人の住む長屋が朝を迎えるシーン、小津映画みたいな(晩春か)カット、音楽や演者のアンサンブルの巧みさなどを充分味わって欲しい。97分だが、もっと長い、ぎっしりした映画を観たという感じを受けると思います。