ラブ・ゼネレーション
たしかにとげのある表現もある。矛盾だと思うこともある。しかし、何度も読んでしまうのである。はじめて読んだのは早川さんが復帰して間もない頃お茶の水の店頭で文庫本で。今は新装本で。正しいかどうかなんて私にはわからないが限りなく素敵なのだ。早川さんが本当は何を伝えたいか知りたくて何度も読んでしまう。遠藤周作さんの「私が捨てた女」を読んだときもそうだった。何十回と読んだ。「ラブジェネレーション」何度読み返しているだろうか?本を買う意味とはここにあると思う。そうでなければ、図書館で読めばいい。早川さんはいつも唄っている。本の中でも。CDを買ったような気分だ。
言う者は知らず、知る者は言わず(早川義夫ライブ)
愛するものへのいとおしさと憎悪。慈悲と欲。もどかしくて言葉に表せない感情が、早川義夫独特の声とメロディーによって聞くものに映像をもたらす。それは、花であったり、月であったり、そして空であったりもする。時とともに封印した過去の切ない想いが溢れ出し、ただただ、呆然としてしまった。一番のお気に入りは「犬のように」。
I LOVE HONZI
早川義夫さんとHONZIさんとの音をライブで聴く機会は、もうありません。
早川さんのサイトでどんなに素晴らしい音であったのかを読むたび、地元に来ていただけないかと切望していましたが、それは叶わなくなってしまいました。手元に残っているのは先日ライブ会場で購入した2002年12月14日のライブ映像DVDだけです。もう一度たっぷりと聴きたい、みんなの、そして早川さんの願いが叶いました。
この世で一番キレイなもの
エレファントカシマシの『東京の空』がリリースされたのが94年5月。この作品を最後に、カシマシは平平凡凡たるJ-POPとやらに成り下がり魅力を完全に失った。一方において、同年10月に早川義夫は20年以上の沈黙を破りこのとてつもない傑作をリリース。翌年『ひまわりの花』を発表しその底知れぬ凄まじさを知らしめたわけである。どのような世界でもそうであろうが、メッキは何時か剥げるものであり、逆に本質は何をしていようが変化しない/出来ないものであり、何時か吹上げて来る/来ざるを得なくなるもの、つまりは才能ある者にとってはコントロール不能なものなのかもしれない。
音楽産業で糧を得ているわけではなくただただ素晴らしい作品との出会いのみを期待する音楽愛好家にとっては、出て来た作品こ!そ!が全てであり、音楽家を応援しようだのサポートしようだの(だから私はサッカーの「サポーター」という何か履き違えたような言葉は嫌いである)、ましてや育てようなどという気は起きないのではないか。特にロックの場合、「育てたりコントロール出来たりする程度の才能・個性・狂気などというもの」は、「つまるところ何ら表現せざるを得ないものを持ち合わせていなかった」ということなのであろう。
新生早川義夫の作品群の前では、現在の日本のロックは完全に色褪せてしまう。格が話にならないほど違うのだ。そして、「こういう生き方しか出来なかった」というようなロックの宿命性を持ち合わせた人間の存在としての凄みに圧倒されるのみである。
早川にとってそれが幸福であるのか否かは分からないが、!聞!き手にとってはまさに奇跡の作品としか言いようがない。以上
ぼくは本屋のおやじさん (就職しないで生きるには 1)
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