死霊(1)
難解な小説だと思われているようだが、「首猛夫です。首ったけ、と覚えてください」と言うなど奇妙な登場人物が次々と現れて、奇妙なことを言う、何か奇妙で面白い小説である。ドストエフスキーより埴谷のほうが偉いと言う人もいるくらいである。野間宏なんぞよりずっと面白い。ご賞味あれ。
死霊(1) (講談社文芸文庫)
「大きくなったら何になりたい?」「あなたの夢は何ですか?」誰もが一度は投げかけられたことがある問いだろう。だが社会で権威を与えられている何かに自らをなぞらえ、或いは純粋な憧れから「〜になりたい。」と答えてしまった瞬間に奇妙な不一致が自己の内部をよぎった経験はないだろうか。例えば「私は医者になりたい。」このように言い切ったときに生じてくる自らへの問いかけ、・・・じゃあ、私から医者を引いたなら私はゼロになってしまうのだろうか?何か残っているよな。はたして私は医者になりきれるのだろうか?・・・自己実現(自己をあるべき自己に一致させてゆく過程)と呼ばれる言葉が社会に氾濫し始めてから暫くたつが、自らをある対象に同一化させる動作は本質的な欺瞞を含みこんでいるのではないだろうか。作者が死霊の中で一貫してこだわり続ける主題はこの私が私であると言い切ることから生じる不快感である。一方人間が特定の場所で特定の役割を果たさなければ(人が何かにならなければ)社会は維持できないという事実も厳然として存在している。それでもなお、私が私であることに対して居心地の悪さを感じるならば、一度死霊を紐解かれてみるのもよいかもしれない。
埴谷雄高
私は小熊英二氏の著作(民主と愛国、戦争が残したもの)によって著者を知ったが、その生き方には強くひきつけられた。その鶴見氏も、埴谷雄高の生き方に相通ずるものを感じていることが、この本を読んで伝わってきた。鶴見氏のジャワにおける戦争体験、埴谷氏の獄中での転向体験は、この本を読む、特に若い読者に、何か自分も同じ経験がある、と感じさせるところがあるのではないだろうか。私は埴谷氏の著作をまだ一冊も読んでいないが、これからの時代を生きるにあたって、今とはくらべものにならないほどの混乱した時代を生きたこの先人の著作を読むことが、何かの指針を得ることになるかもしれない、と思っている。