長崎ぶらぶら節 [DVD]
以前見たのだけど、この映画長崎の風景が美しい事、
愛八やその他登場人物が着ている和装がお洒落なので見ていて飽きない。
ただ、他の方も書かれていらしたんだけど、愛八は市原悦子さんの方が説得力があって、お茶目で魅力があると私も思うわ。
映画にも芸妓になる際に「器量が良くない」事を問題にするシーンがあるんだけど、
実際の愛八は吉永さんの様に器量良しではなく、容貌は劣るものの何処となく憎めない人だった様に思える。
そして、愛八は「芸は身を救う」の言葉よろしく、長崎のお座敷の人気者になる。
だけど、単に努力して芸事を磨いただけじゃない。
愛八自身が苦労人であり、苦労した事で“ひねくれる”のではなく、面白おかしく人を貶めるのでもなく、
人...特に立場の弱い人を思いやれる優しさを先天的に持っていたのだろうし、長崎の丸山町では“愛八独自の優しさやお人好しな部分”を
キチンと受け止め、愛八の優しさや面倒見の良さを悪しき形で利用し、喰い物にする様な悪人が少なく、
愛八の気持ちを理解してくれる様な律義で情の深い人々が周囲にいた事も幸いして愛八の人気は衰える事が無かったのだろうと思う。
環境が違うと同じ人間が同じことをしても凄く評価が違ってくるし、出会う人も変わってくる。
つまりは、愛八にとって丸山町も芸妓の仕事も、全て肌に合っていたのかもしれない。
そんな愛八が運命の出会いをし、想いを寄せた古賀と共に歌の発掘に出る。
それはある意味、愛八にとって第二の人生の旅の様なものだっただろうし、好きな男性と共に歌探しに費やす時間を打算や駆け引き抜きで純粋に楽しんでいたと思う。
昔、人々に口ずさまれ、今は忘れ去られた素朴な歌、お座敷小唄とは違う形の歌を好きな男性と共に宝探しの様に探しながら、
それらに新たに息を吹きかけ蘇生させる様な作業には何の徳も無い。
だが、愛八はそれを損得抜きに心から喜んで引き受ける。古賀と添い遂げる事が無いと分かっていながら。それは無償の愛とも言える。
本当の意味での女性の可愛さや健気さを描いていると思う。
表面的なモテを打算で追及する人に見てほしいと思う。
打算的な性格で表面上の優しさを演じてモテる事を追及しても、幼稚で年甲斐もない可愛さもモテないから。
どんなに意識して演じていても、ふとした無意識の表情の時に、その人の地の性格が出ます。
顔や体が綺麗で異性を惹き付けられたとしても、それは一時的な物、人間最終的には内面が物を言い、それがモテる事に繋がるのが分かるのでは?
危ない侵入者を防ぐ安全マニュアル
年に1回程度のわりで警察の家族調査が来ますが、その返事にも正直に答えていいものかどうか迷うほど物騒な世の中です。そんな世の中なのに自己防衛法を真剣に考えずに毎日を過ごしていました。この本を読んでお金のかかるホームセキュリティに入れなくても自分の心がけでかなりの防衛が出来る事を知りました。また娘・息子等、若い人を見ていると、個人情報の流出に無防備なので是非この本を読んで、少しの心がけで大きな防犯につながる事を知ってもらいたいと思いました。
兄弟 (新潮文庫)
兄弟だから、親子だからどんなにだめなやつでも
結局は可愛いものだ、許せてしまう。
そんな思い込みを根底から覆す作品だ。
この兄弟ほどではないにしても、世の中にはこんな肉親の関係もあるはずだ。
作者の読みやすい文章を通じて、作者ほどの人がなぜこんな奴を信用してしまうのか、金を貸してしまうのかが納得させられる。
世界は俺が回してる
50年代のテレビ黎明期から、60年代、70年代の高度成長時代のエンターテイメント界を、疾風の如く駆け抜けたtbsの名物プロデューサー渡辺正文氏。物語は作詞家、音楽プロデューサーとして同時代を生きたなかにし礼氏による渡辺へのオマージュとして展開される。
主人公渡辺をメタファーとして、創造と享楽の表裏一体性を鋭く抉りつつも、根底にはデカダンスとそれに内在するダンディズムに対する作者の強烈な憧れ、畏怖、絶望が読み取れる。
女性による救済を創造の泉とし、自らの王国を作り上げる様はまさにバイロイトに君臨したワーグナーそのものだ。
ワーグナーに心酔し、最後には決別したニーチェの言葉を思い出させる。
「彼は人間ではない、病だ。」
櫻/峠春秋(Bタイプ)
氷川きよしの新曲「櫻」。
聞き惚れました。
従来、氷川きよしの楽曲は、
作詞松井由利夫、作曲水森英夫のコンビが定番でしたが、
今回は大御所、
なかにし礼、平尾昌章のコンビ。
哀愁を帯びたメロディー、
永遠の別離を描いた歌詞、
大人の心情を歌にした、
新しい路線です。
そんな曲に負けずに、
氷川きよしが歌い上げています。
じっくり聞かせる名曲です。
余韻を残して終わる歌唱は、
氷川きよしの演歌歌手としての、
技量があってこそ。
「櫻」は氷川きよしの代表曲になるといいですね。