物語のようにふるさとは遠い
1曲目からものすごい衝撃を受けました。
こんなCDは世界中探しても他にないと思います。
耳ざわりのいい曲では全くありませんが、どうしても頭に残ります。
音楽と詩の中間地点にあるような、非常に不思議な感じです。
とにかくすごいです。圧倒されました。
「とはずがたり」を旅しよう (講談社文庫―古典を歩く)
このシリーズ、いくつか読んできましたが、本書では驚くべきほど作者(富岡さん)の姿が前面に出てきません。作者の美意識や価値観、そして主人公(本書では二条)への共感が、普通は「古典を歩く」シリーズの旅のモチーフとなるのですが、ここではむしろ淡々と「とはずがたり」の筋が時系列的にたどられていくだけです。
そういう意味では小説(新とはずがたり (講談社文庫))以上に原作の筋を忠実にたどるには役に立ちます。「死ぬほどの悲しさ」で取り上げられる、伏見離宮での三日間の部分の描写は、抑えられていますが、これは確かに異様なシーンであり、著者も相当のスペースを与えています。
上記の小説とは違い、本書の半分は出家後の旅にスペースが与えられているのですが、この部分でも土地の魅力が浮かび上がる事はありません。むしろ著者により強調されるのは二条にとっての後深草上皇の存在の大きさでしょう。とはずがたりの著者が訪れた場所もそれなりに著者により再訪されているのですが、著者の著述があまりにも抑えたものであるためでしょうか、どうも薄い印象しか与えないようです。
ところで、今気がついたのですが、この「古典を歩く」シリーズ、すべて著者が女性作家なんですね。これはこれで別の解明を必要とするテーマなのかもしれません。
男流文学論 (ちくま文庫)
単行本が出たのが10年前なこともあり、一般的な読者にとっては、ここで取り上げられている「男流」達は村上春樹を除いてあまり「今」の人たちではありません。でも世間では傑作扱いされている沢山の「男流」作家作品に描かれている、女性のありように対し、「何コレ?」「こんな女性いるわけないでしょ」「勝手にこんな女性像を押しつけないで」、とシラけた経験のある女性にとって、胸のすく思いがする本です。
川端康成文学賞全作品〈1〉
川端賞の対象ジャンルは短編小説である。本書には第1回(1974年)から第13回(1986年)までに受賞した作品が17編収められている。またそれらとあわせて、巻末に各回の選考委員の選評がすべて収められている。受賞作のすばらしさもさることながら、選考委員たちの選評もそれぞれが個性的で滋味に溢れている。
例えば、委員の一人である中村光夫の「ひとつの水滴に大空が映るように、現代文学の動きがここに見られるのも確かである」という比喩は秀逸である。私は中村光夫や山本健吉の言葉に接するのはこれが始めてであったが、感心しきりだった。また吉行淳之介のコメントもどこかおどけた調子が滑稽で、そういう意味で「らしさ」が出ている。軽妙洒脱とはこういうことをいうのだろう。このように選考委員たちの言葉がすべて掲載されており、いちいち読むのが楽しい。
さて、このような立派な選考委員たちが選んだ作品であるから、どの作品も傑作である。円熟味を帯びた作品が目白押しで、マエストロたちの饗宴といった観がある。そのなかで私が気に入ったものを挙げるならば、永井龍男「秋」、和田芳恵「雪女」、野口冨士男「なぎの葉考」、島尾敏雄「湾内の入江で」である。特に、「秋」などは芸術の域をほとんど超越した出来栄えになっており、読後の余韻にはこの上ないものがあった。
蛇足だが、こういうアンソロジーが文庫化される日が来ることを望みたい。
桜の森の満開の下 [DVD]
旅人を襲った山賊は女を手に入れるが、その美しさに魅せられ女を満足させるため無理して都会に住んだり、人を殺して切り落とした首をあたえたりすようになる。最初は力と暴力で自分の物にするつもりだったのに、女のペースにはめられ抜け出せなくなり、哀れな最後を迎える事となる。これは時代劇とは全く違う、独特な感性の世界で岩下志麻演じる女が本当に人間なのか、いつの時代でドコの話なのか全然分からないし(知っても意味無いし元々設定もないだろう)あまりに現実味が無く誰かの妄想を覗いているような不思議な気分です。”桜の下には死体が埋まってる”とか”人を狂わせる”とかダークなイメージもある桜を使って、狂気の世界を表現するラストあたりになるともうすっかり訳分かんなくなってて、でもそれでいい、何かハッキリした答えなんかなくてもいいや、って気になります。