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Improvisczario スティーブジョーダンさんのドラムの教則DVDで演奏を始めて聴きました。
なにか気になってしまいまして。リーダー作を聴いてみたいと思い入手しました。
感想ですが。大き目の音量で一曲目を聴いたのですが、言葉にできないですが、
いいです。50年代のジャズの感じが好きなのですが、うまくいえないですね。
あの、同じ部屋で一緒に演奏してそれが録音されている。雰囲気。ですか。
もわーとくるというか。スモーキンアットザハーフノートのフォーオンシックスが
大好きなのですが。同じ気持ちの方がおられましたら。おすすめです。
音楽的にはビックリしたのが正直な気持ちです。
あー、こういうのもあるのか。と、まだ理解はできてないのですが。
やはり魅かれるものはあります。
抽象的な文章ですみません。音楽は読まずに聴くしかないですよね。

母の遺産―新聞小説  『続・明暗』で私達の度肝を抜き、第二次大戦後書かれた恋愛小説としては『春の雪』と肩を並べるであろう傑作『本格小説』を上梓し、『日本語が滅びるとき』では日本語の将来を心から憂い、文学をそして日本語の美しさを愛する私達に衝撃を与え続けている水村美苗氏が十数年ぶりに発表した小説である。期待は大きかった。
 氏の日本語は相変わらずほぼ完璧と云ってよく、古風で典雅な語彙と言い回しをちりばめた表現はきわめて魅力的であって、まさに『日本語が滅びるとき』の問題意識を小説と云う形で実践したものと云える。
 しかし、この『母の遺産』が小説作品として『本格小説』の域に達しているかと云えば、残念ながら遠く及ばないと云わざるを得ない。漱石が『文学論』の中で述べたように小説を、A.内容・文体ともに優れた小説、B.内容は優れているが文体が稚拙な小説、C.文体は素晴らしいが内容が乏しい小説、D.内容・文体ともに稚拙な小説、と分けるとすれば、『母の遺産』はCに当たる。
 その原因は幾つか考えられるが2つだけ挙げてみたい。
 まずは内容に関して。
 兎にも角にも暗すぎる。小説は、どんなに悲劇的・悲惨な内容のものであろうと、読み終えた時、生きていることには価値があると思わせてくれるものであって欲しいと思う。その点で『母の遺産』は物足りない。
 小説前半の中心となる、主人公「美津紀」の母(と祖母)の生き様については、美苗氏の母・水村節子氏が書いた『高台にある家』の方が、エゴイスティックに、しかし純粋に生きた主人公の姿が活き活きと活写されていて数段面白い。娘・美苗氏もその文章の添削を手助けしたと云うことだから、美苗氏に、母「紀子さん」の若き日の生き様を改めて小説化しようという意図はなかったはずである。そうであるなら、美苗氏の意図する前半の主題の1つは、肉体的・精神的に問題を抱えた老親を持つ者の介護の問題、或いは老人の延命治療に対する批判なのであろうか。(『高台の家』を読んだ者にとっては老いた「紀子さん」の姿が余りに哀れです。)私も長生きをしすぎている親を持つ身ゆえ、美苗氏が提示する問題に無関心ではおられないが、それでもこの本を読んで新たに何かを考えさせられたと云うことはなかった。ただ遣り切れなさだけを感じた。つまり氏の感覚は老親を持つ者なら誰でも感じる普通の感覚なのである。私達読者は水村美苗氏に普通の感覚を期待しているのではない。
 さらに
 「美津紀」は母の遺産が幾らになるかということに異様なほど関心を示す。それだけでなく夫と離婚することで慰謝料は幾ら入るか、離婚のあと夫の年金の自分への分割分は幾らになるかを細かく計算する。(水村美苗氏は漱石の『道草』を意識していたのかもしれない。)確かに尊厳を保った生活をする為には或る程度のお金は必要である。しかしお金の話は日本人の美意識――「生き方」と云ってもよい――とは相容れないのではなかろうか。(文学とは畢竟おのれの美意識の表出である。)これまで水村氏は或る意味でハイブラウな人々、或いはハイブラウでありたいと願う人々の生態、彼らの美意識を描いてきた。それ故に、知的読者層の支持を得ていたのだと思う。そうした人々にとって、お金はあくまでも必要悪であって、出来れば見て見ぬふりをしていたいものである。ここまで細かくお金の計算をする主人公の姿は見たくなかった、と思う水村美苗ファンは多いのではあるまいか。
 次は構成の面である。
 『母の遺産』は余りに構成力に欠けるのである。これは新聞に週一回づつ連載されたと云う作品の成り立ちと関係があるのかもしれない。週に一回の連載小説では、一回ごとに或る程度の小クライマックスが欲しい、複数の登場人物も新聞読者に忘れられないように或る程度の間隔で名を出しておきたい、と云う気持が働くようだ。
 母が死ぬまでの前半は、現在と過去との行き来が頻繁すぎて、印象が散漫になる。また、母の死後「美津紀」が箱根のホテルに逗留してからは、小説の雰囲気ががらっと変わる(そのことで小説の統一感が損なわれる)上に、新たに登場する人物が多過ぎ、加えて話題となる人物が次々と交代するので、一人一人の印象が薄い。水村氏はこの小説を「美津紀」がロマンスカーで箱根に旅立つところから始めるべきだった。箱根のホテルで登場してくる人物達をあらかじめ或る程度紹介しておき、そこから過去の回想へと戻るべきだったのではあるまいか。そうすればもう少しは小説に統一感を与えられたかもしれない。
 兎に角、水村美苗氏は推敲に推敲を重ねた上で作品を発表すべき人であって、新聞小説には向かないのではなかろうか。(『続・明暗』『本格小説』の構成力を見よ。)氏のことだから、今回の失敗を繰り返すことはあるまい。多分二度と新聞に小説を発表することはなかろう。万が一発表する時でも、きっとあらかじめ書き上げた上で、さらに推敲を加えながら連載を進めて行くのではあるまいか。
 最後に(これは水村氏の責任ではないのかもしれないが)
 この小説の連載の最後は4月2日、あの3.11大震災の直後である。水村氏はこの未曾有の災禍に物書きとして何らかのかたちで対応しないではいられなかった、そして締め切りまでには深く考える時間は残されていなかった。だから、最後の章があのように如何にも取って付けたようなものとなってしまったのだろう。私は終章を読んだ後、谷崎が太平洋戦争の最中に『細雪』を書き続けていたことを考えずにはおられなかった。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で 自分は文学という学問には門外漢なので、日本語が国語となった経緯の説明で使われている本書の議論が一般性を持つものなのか分からない。しかし、本書で触れられている、普遍語の存在下で現地語である日本語が国語に至る経緯を、欧米の言語と比較しながら説明するくだりは非常に納得がいくものだった。また、国語形成において明治の先人たちが翻訳活動を通じて日本語で考えることができるまでに言語の完成度を高め、そうした知的活動が現在の日本の大学を形成する土台にもなっている事もよく分かった。また、言語が亡びる第一段階としてその言語で「読まなくなること」があげられているが、英語がインターネット時代の普遍語となったときに英語で情報収集することが多くなる事は必然と感じられた。
それ以降の筆者の展開で考えさせられた点が2つ。まず、母語が日本語である場合、英語が普遍語になったとしても叡智のある(文学)人が必ずしも英語で表現するのだろうか。確かに明治には西洋の新しい知見を日本語に取り込んで近代文学が生まれたが、新たな知見の日本語への取り込みがなくなり英語だけで簡潔している場合は表現可能な文学に制約は発生しそうである。また、日本の国語教育として近代文学を読むことを訴えているが、これには賛成したい。日本に平安時代から残されている文学・聖典の解釈等は日本人の財産であり、受験を抜きにしてそれらを楽しめるようになることが、義務教育の国語における到達地点であってもよいと思う。

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